ねこの写真を載せてみようかと、試しに空の写真を下書きに入れてから削除してみたんですけど、仮置き的な場所から削除する方法が分からないの。
削除できないというのも気持ち悪い感じで、やめることにしっちゃたわ。
ほかに 位置情報だとか、瞳への映り込みだとか、自分の知識が不十分で安心できないと、ブログもやりづらいわね。
この前書いた、たとえや言及についても、知識が完璧なら、それに沿ってできる範囲でってことになるでしょうし、あまり気にしない人も、後の問題を考えなければ、書くこと自体は制約されないのかもしれないわね。
ただ、知識が完璧でも、解釈や認定の部分で、不確定要素がありそうね。
(自ら)世間に提示した物事について勝手に言及されない権利のようにまでなってしまうとすれば、良くないと思うわ。
同意や明示が必要だとかは、盗作の問題や商業的利益のような領域だけにするべきよ。
読み手・受け手の参照に役立つのはいいことだけど、義務が のしかかると不自由でしょ。
お笑い芸人さんのギャグなどでも、他の芸人さんが何度も使って、営業の一部に組み込んでしまえば問題でしょうけど、ちょっとした真似事の笑いまで問題視されるとすればどうかと思うわね。
芸能の世界での仁義みたいなのがあるのかもしれないけど、テレビに出てる人の間の常識とかやりとりに、視聴者も寄っていくでしょ。
物事が人にうけて、認められたり、人気が出たことなのに、少なくとも一般の人が言及する程度のことが問題視されるというのであれば、おかしなことだと思うわ。
ネタバレという視点も、曖昧だと抑制されるわね。
↓ 「逃げるは恥だが役に立つ」も、前に観てまた再放送を観ているの。
( 子どもの頃、母から、また テレビに左右されてるって言われたりしたわ。
今の子だと、ゲームやネットかしらね。
色々なことで、母が 正月早々 というのも言ってたけど、あまり特別に思って外れてしまうと、残念感に脆弱かも。)
( ドラマは、人々の心にある普遍的な価値を、特殊なものも含め様々な設定や良質な表現で描いて、観る人に感情移入や共感してもらえるどうかが評価につながるんでしょうね。)
( 特殊な価値を 普通に描かれると、怖いか笑うかになるのかもしれないわね。)
↑ たとえや言及的なパロディのような場面も色々あって、それらが一般的に認められていそうなことが感じられて いいんだけど、それでも、同意を得る必要があるのかとか、明示を意識しないといけないのかとか、クレームが来たりするのかとか思ったりすると、 モヤモヤして 萎縮してしまうのよ。
法改正だかで、写真への映り込みなんかは、普通は問題無いらしいわね。
それとは少し違うけど、エンターテインメントの分野に関する、ちょっとした言及 や たとえ・もじり・いじり みたいなことも、いじめのようなものでなければ、普通は大丈夫といったふうに感じられるほうが、世の中がギスギスせず、様々なことへの寛容につながっていいのでは、と思うの。
ドラマ内で、自尊感情というワードが出ていたわね。
自己肯定感と同じような使われ方で、特に問題があったわけではないの。
低い人の意識を引き上げるような部分では 自尊でも構わないけど、高過ぎてくると、他者との関係では良くないということになるでしょうね。
肯定だと、いくつでも肯定できるような意識だけど、尊ぶというのは、他より上位に思うことよね。
尊重するというのだと、平等が意識されるけど、自尊はフラットより上だと、他者より自分が尊いということになりそうよね。
誇りについては前に書いたと思うけど、自尊と同じ感じかしらね。