「 優しさを主とし、知的・客観的に確かな 思いやりの心 」  それを推奨していますが ... らくがき帳になっています。 ( 何の専門家でもありません。) 番号をクリックすると、その全文が表示されると思います。

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すごもり生活のために 犬を買った飼い主が 世話をしきれず、犬がボランティア団体に引き取られているというのをテレビでやっていた。

 

自分の幸せを求めるのは当たり前のことだが、他者を利用したり、犠牲にする選択をしていると、幸せにはなれない。

 

大変な部分を含めて、一緒にいられる(た)ことなど、自分が得たことを、感謝できるかどうかに、幸せは掛かっている。

 

大変な部分を理由に 対象を切り捨てて済ます心では、幸せはつかめない。

 

何かを切り捨てて、合理的な損得計算上の得について感謝するというのだと、うまくいかなくなった場合や差し引きで不満足感が強い場合には、不幸でしかなくなる。

 

優越感を持って生きても、それを支えているのは、優しさではなく、意地悪さである。

 

悪い意識は、普通の満足感とは両立するかもしれないが、深い満足感・幸福感とは両立しない。

 

また、他者への意識の傾向は自分にも向く。

 

不幸と感じる人が意地悪だということではないが、意地悪さは、失敗などで自分にも向いて、不満足感につながるだろう。

 

 

心から深く感謝できるためには、冷たさや意地悪さが無いことは当然として、喜びを感じられる心の状態が必要である。

 

そのためには、たぶん無や空だけでは足りず、他者を切り捨てたりしない優しさが必要であって、結局、優しさが、深い感謝を通して、幸せにつながるのだ。

 

自分への優しさではなく、他者への優しさだ。

 

他者への優しさが不十分だと、幸せの近くにいながら 幸せを得ることができずに一生を終えることになってしまうだろう。

 

仮に宇宙と一体となったとしても、それを感じる自分がいなければ、死と同じ、我  思わなければ 我なし ということになる。

 

我を捨てるというのは、心をすべて無くすということではないだろう。

 

宇宙と一体なっても、日常でも、それを どう捉え、どう感じるか、画竜点睛として、どのような眼を描き入れるかということに掛かってくる。

 

 

 

猫と過ごして大変なことは、人によって違うのかもしれないが、私の場合は、夜遅く疲れて帰ったときに、ねこが布団におしっこをしていたときだったかもしれない。

 

布団の複数カ所に、大のほうがちらばっていたり、キャットフードを吐かれていたりするのも、大変ではあったが、ねこの尿が布団に染み込むとより大変だ。

 

大のほうだと、量的な面で人間のほうが臭いが、尿のほうは 猫のほうが少量でも においがきつくて、手につくと においが気になったりした。

 

トイレットペーパーに染み込ませてトイレに流し、ねこに害が無さそうな消臭スプレイをシーツや布団に掛けて拭き取るということを何度も繰り返し、ドライヤーで乾かし、においが気になれば、また、繰り返すということになった。

 

猫がいなくても、それ以上に遅くなることはあり、捉え方次第なので、それくらいのことをすればいいだけでもある。

 

猫が体調を崩したりした場合については、家族として当然心配になる。

 

 

厳格な基準ではないが、ねこを撫でるのは、ねこが構ってくれと寄って来たときにしたほうがいいのかもしれない。

 

室内飼いでは、爪を切ったほうが良いだろうが、その場合、多少抵抗されても、いつもやっていると、猫も根負けしたり、諦めてされるままになって、構ってもらえている感を持ってくれる場合もあるかもしれない。

 

 

愛情を注ぐことができないと、幸せを得ようとしても無理である。

 

思いやりへの見返りとして 自分の幸せを期待しながら 同じ行為をしても、それは昔話の悪い人と同じ思考に陥っているかもしれない。

 

やりたくないときなどに、そう思ってやるのは、理由は何であれ、猫のためにはなるので 否定はしないが。

 

 

 

外来生物について、テレビでやっていたが、その人は調査・研究するために捕獲しても、結局、仕方なく殺処分するらしい。

 

外来種が増えて、在来種と分けるだけでは済まないのなら、在来種のほうを捕獲して保護することも考える必要があるのかもしれない。

 

それもできない場合でも、人間が管理するからとして、殺処分するというのは賛成できない。

 

種が絶滅しないために、個の命を奪うという考えには賛成しない。

 

人間が関与した中で、力関係を制御できないからといって、一方を在来の自然でないと考えて、殺処分するというのも、人間の論理でしかない。

 

ここでも、人間が神のような地位に就いて、生殺与奪の権限を持つ、あるいは責任があるというような考えには賛成できない。

 

 

規制緩和による 飼育に関する自由を肯定したうえで、最後まで責任を持って飼うようにというような考えは、できない人や しない人を考慮しない点で誤りがある。

 

研究者でさえ、たとえば放射性物質を、災害の可能性などを含めて、必ずしも完全に管理できるとは限らないので、国民全体としては全く無理である。

 

今なら、感染症対策への意識の違いを想起すれば容易に分かる。

 

人類以外の種の命を管理するより、人間自身の行為を管理するほうが先であり、自然に負荷を掛けて回復できないようなことになる自由は、制限されなければならない。

 

外部に出さないようにしさえすれば、一般人が責任を持って飼うのは自由という考え方が破綻することは元々予想できたことだ。

 

( 感染拡大時でも GO TO は悪くなくて、予防対策を皆がしっかりやれば良いというのも同じような考え方だろう。)

 

 

また、たとえ人類の滅亡を防ぐためだとしても、あるいは多くの人を救うためだとしても、手段として誰かの命を奪うということには賛成できない。

 

何の責任もない誰かの命を奪わなければ、人類が滅亡するというような状況は、太陽が膨張・爆発する事態と同じようなものであると考える。

 

それは、遭難した場合に 誰かを殺害して生存を図るようなことと同じでもあるろう。