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様々な面でグローバル化が進んでいることは言うまでもない。

 

人権状況への 国際的な関与は、内政不干渉で済まされる時代は過ぎ去っている。

 

契約相手や関わる相手が暴力組織ではないことが求められるような社会的要請などとパラレルな面もあり、また、もちろん、実際に一人ひとりの人権が尊重されなければならないという面でも。

 

人権に関して内政不干渉を主張することは、自国の後進性・劣後性を示すことになる。

 

 

身柄の拘束・禁錮刑などが 過酷に為されえることへの危惧は、コロナ禍での外出自粛から、実感を伴なって抱かれるように思われる。

 

禁錮刑は、政治的・思想的な面で懲役刑と区別されて存在するらしいが、運用次第で、過酷さが強制労働以上になってしまう可能性もある。

 

( 仮にテロリストとみなされるような人であっても、人権は保障される。)

 

実際の刑罰の状況が過酷でないことの担保が、人権保障上、極めて重要であり、国際的な査察も必要である。

 

まずは、刑罰が過酷でないことを各国が明らかにする・させる国際的な取り組みが、最低レベルでの救済として重要であると思われる。

 

 

煽った・扇動した内容が暴力行為であれば、教唆やほう助という点で罪に問われるということも理解できるが、集会やデモに参加する呼び掛けだけで そのような罪に問うことは、人権侵害である。

 

禁止された集会やデモといっても、権力に対する批判が全般的に禁止されて 基本的人権の行使が妨げられるのでは、禁止のほうが無効である。

 

人権侵害が度々指摘される権力は、国家として扱われるべきでないことについて( 現実的かどうかは別として )、検討がなされる必要がある。

 

 

大日本帝国下での治安維持法が、外国在住の外国人に適用されて、入国すると拘束されて刑罰が科されたのかどうか知らないが、現代の民主国家では当然に認められている権利の行使に関して そのような心配がある国には、恐ろしくて行けない。

 

契約その他、関係を結ぶことが躊躇されてしまい、結局 当該国にも不利益となるのが必然であり、合理性を欠く判断が為されている権力ということになる。

 

人民民主独裁といった考えは、特権階級を排除した後は 人民に対する独裁として権力側が特権階級となり、語義矛盾ともなる。

 

一党独裁は 合理性を欠き、様々な面で整合性を保つことができない。

 

合理性が装われるだけの、一般人を抑圧する、権力者側のための権力は、各所に存在し、それを正すことは、人類全体の課題である。