330

医療逼迫状況下での、集中治療などの割り振りは 困難を伴なうだろうが、助かる見込みを判断をせざるをえないような場合であっても、多くの人を救うためだと考えるのは、良くないと思われる。

 

目の前の患者を医療側が救いたくても救う能力がないために、治療が必要な他の患者のほうに向き合わなければならないということはありえる。

 

また、たとえば、才能を伸ばすような場合には、伸びる見込みのある人を優先するというようなことはありえる。

 

しかし、基本的人権として最も重要である命を救うことについて、神のような視点から、患者を比較して選別するようなことは誤りであろう。

 

患者側の状況を客観的に診る必要はあっても、上から目線で判断することと、医療側の能力不足を認識してやむをえず対処するということには違いがあろう。

 

 

医療を受けられる時間や機会や順序などの面での平等性の観点は重要である。

 

国民が納得せざるをえない判断基準が予め示されている必要もある。

 

助からないという患者側の状況ではなく、医療を行なう側がすべての患者を助けられる状況やレベルにないという意識のほうが必要である。

 

助かる可能性の比較ではなく、緊急の場合には、、医療がすべての人を助けきれないという現実の中での平等性が、一般に理解される必要がある。

 

助ける側の能力や体制が 不十分な状況では、必ずしも助けてはもらえない場合があることを予め受け入れておく必要があることは、災害救助と同じだろう。

( まず、自助だとして政府の負担を軽くしようとすることには反対しなければならないが。)

 

多くの人を救うための犠牲とか、特定の属性に関する判断による犠牲ではなく、平等な扱いの結果によるやむをえない犠牲は、万人が受入れざるをえない。

 

( 自分が十分幸せに生きることができたから、他者に譲りたいと思う気持ちは尊重されて良いが、他者が希望退職を確かめるようなことをすべきではない。)

 

また、医療側の能力によっては、救われない場合があることも受け入れざるをえない。

 

 

相手を観察して、神のような立場で選別して良いわけではなく、誰もが平等に扱われる必要性からの予め決められた対処であるという事実を認識することは、医療側の心の負担を少しでも和らげることにつながるのではなかろうか。

 

多くの人を助けるためというほうが、モチベーションが上がりやすいかもしれないが、自分が操作した犠牲に意識がいけば苦悩するだろうし、犠牲を看過して良いわけでもない。

 

結果的に多くの人が助かって喜ばれるからといって、 誰かを犠牲にしてそれを達成して良いわけではない。

 

他の患者や多くの患者を救うために目の前の患者を犠牲にするのが正しいのではなく、全ての人が平等に扱われなければならないため、予め決められた基準で平等に対処がなされるということが正しいだろう。

 

設備や装置などが空いていなければ、すぐに助けてもらえない場合があるというのは分かりやすい。

 

そのような状況を避けるための努力が必要なことは、一般に指摘されている。

 

 

その場その場の判断で、誰かの命を見限って、他の誰かを救うというのは困難だろうし、良いわけでもない。

 

設備や装置を利用する前に、平等性の見地から他者に譲る必要が出てくる場合もあることなどについての承諾が必要だろう。

 

予め承諾していても、現実化した際には困難を伴なうだろうが、そういう面でのケアを含めて 平等性は保たれざるをえない。

 

平等性といっても、状況は様々なので、全く同じにするということではない。

 

細かい医療基準については語ることができない。