318

政府の説明責任を意味のあるものにするのは、投票行動であろうが、ひとつ気づいたのは、世論調査である。

 

投票の機会を待たずとも、あるいは、投票時点での判断は別として、世論調査に回答する機会があった人たちが、説明責任が果たされているかどうかを最重視して調査に回答すると良いのではないかということである。

 

世論調査での支持率と選挙結果が違うと困るかもしれないが、いつもそうであれば予測の余地もあるだろうし、選挙がいつかも分からない時点では、間接民主制において国民が政権を多少なりとも制御できることを優先したほうが良いのではなかろうか。

 

誤解に基づく回答結果で政権が不安定になるのでは良くないが、それは世論調査の問題ではなく、国民の理解全般の問題だろう。

 

政権側の緊張感や軌道修正は必要だ。

 

説明の内容がおかしいと判断できる人はもちろん、自分では判断できない人でも、十分な説明がなされていないとの評価が多い政権・政党・議員に対しては、コアな支持者でなければ、国民生活上、投票行動や世論調査で示すことを考えたほうが良いと教育で教えておくことも必要だろう。

 

教育であえて教えても良いのはなぜかと言えば、どの政党や政治家についてもあてはまる公共的なことだからである。

 

意識調査で、真意とは必ずしも違う回答がなされるというのでは良くないが、世論調査への回答で 説明責任を重視するからといって、真意でなくなるわけではないだろう。 

 

 

価値判断の違いに基づくことや、説明は正しいが理解することが難しいといったことは、説明責任が不十分ということにはならない。

 

説明が正しいのに、国民の多数が理解できずに不満をもってしまう状況が良いわけではないが、それは必ずしも政権側の責任とは言えない。

 

逆に、説明や解釈がおかしい場合でも 多くの有権者がおかしいと理解できるとは限らないが、その場合には政権側の責任が問われる必要がある。

 

官僚の論理が浅薄なものであれば、読み取る能力のある人には分かる。

 

説明自体としておかしいということが度々指摘されていたり、選挙の争点について価値判断ではなく説明自体としておかしいということが知見の多くから指摘されていれば、たとえ自分でおかしいということが分からなくても、投票行動や世論調査で示したほうが良いということが、一般常識や生活上の知恵として受けとめられるようになったほうが良いのではなかろうか。

 

目先の利益や雰囲気に釣られたり、自尊心をくすぐられたり、外国への敵愾心を煽られたりして、おかしな政権運営を許し続けてしまうと、大きな代償に結び付く可能性もある。

 

与野党間での政権交代がない状況で、主権者側による政権制御の余地が乏しいのは良くない。

 

 

ネット上の暴走や悪用があると問題だが、説明責任がしっかりと果たされているかどうかについては、理性的な判断が優位となるのではなかろうか。

 

説明する側が誠実さを意識せざるをえなくなれば、はぐらかしたり、おかしな説明が横行するようなことを防ぐことができるだろう。

 

 

一事が万事ということの、その一事で判断できる可能性があるにもかかわらず、数々のおかしな説明を許していては、茹でガエルである。

 

そのような場合には、主権者として、世論調査をイエローカードとして使うのが良いのではなかろうか。

 

 

改められなければ、より誠実な者に経験を積ませたほうが良い。

 

利益を基準にするとしても、まず誠実な相手選び、未熟さ、値段の高さ、とっつきにくさなどは、保険料と捉えておく必要もある。