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このブログは、「 優しさを主とし、知的・客観的に確かな 思いやりの心 」が 現実的な対処で活かされるための、各論的・事例的な記述を主目的としている。

 

国の政策などで、それに基づく必要があるということを示すことが中心だと思う。

 

個人的な回想を書くつもりは無かったし、書かれても興味がない人もいるとは思うが、つながりがあったりするし、閑話休題的な面やちょとした楽しみも兼ねて書いている。

 

場合によっては、楽しみだけになっていくかもしれない。

 

個人的なことや思いを書きたくない面は、自意識過剰に過ぎないのかもしれないが、自由な領域で無理をしても仕方ない。

 

その時書きたいと思って書いて、後で恥ずかしくなることがあるのも厄介だ。

 

 

さて、初恋の相手について書くのも気恥ずかし過ぎるが、その子が記したことも、自分に影響を与えている可能性がある。

 

その子が、アンケート的なコメント欄で、大切にしていることについて、思いやりを挙げていて、更に、自分に厳しく人に優しく、ということも記していた。

 

祖母から、自分がして欲しくないことは人にしてはいけないよと教えられた、思いやりについての原初体験に、そのことが付加されたように思われる。

 

逆にそのことが、祖母の教えを はっきりと自分に意識させた面もあるのかもしれない。

 

子どもの頃も、若い頃も、そして今も、自分の思いやりが不十分なために、考え続けることになっているのかもしれない。

 

 

現実に思いやりを実践している人がいるのは、とてもありがたいことで、自分はかなり ただ乗りしてきたのかもしれない。

( 生活に困っている場合、支援を受けて良いのは当たり前であり、ただ乗りも必要である。

せっかく用意されている支援も、利用がためらわれてしまうのでは、助け合いがない社会になってしまう。

返報についての強迫観念のようなものは、お互いに無くす必要がある。)

 

スマホが普及する前は、道を尋ねられて教えることが、少し役立てた感じで嬉しかったのだが、今は尋ねられることはほとんどない。

 

それくらいが自分のレベルだが、仕事が何かの役には立ってきたのだろうという感じは、多くの人にとっても仕方ないことだろうし、受け持っている仕事がおかしなものでもない限りは、肯定的に捉えたほうが良いのだろう。

 

 

いつだったのか思い出せないのだが、例の在日米軍駐留経費負担の問題について、思いやりということが用いられて、そういう使い方がなされてしまう場合があることが分かり、どうすれば良いのかを考えることになった。

 

いじめの問題でも、いじめられる人が第三者的な立場で、共感の対象になっていないということ ( いじめる側の人の間での共感が無いわけではないこと ) にも気づいた。

 

当初は、常識と思いやりということを考えたが、常識的な対応がお思いやりに反してしまうことがある。

 

そのような過程を経て、思いやりに「 知的・客観的に確かな 」ことが必要だとした。

 

更に、その時々の知見が間違っていたり、行き過ぎた対応がなされてしまえば悲劇を招いてしまうため、あくまでも優しさを主とする必要があるということである。

 

思いやりとは、本来そういうものであることを表現したに過ぎない。

 

知性が情熱の召使いになりがちだからといって、限られた人だけに都合よく理由付けを探すような、感情優位の直観主義ではなく、理性と影響し合う総合的な判断だと思われる。

 

「 思いやり 」を、外国語で説明するときには、「 確かな知性や客観性を伴なった優しさ 」「 理性を伴なった優しさ 」といった表現はどうだろうか。