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まずは自分でやってみて、… セーフティーネットで守る、というのは、優しさが主ではないし、知的・客観的に確かでもなく、思いやり節約思考である。

 

人は自分で何とかしようとするものだが、できる範囲は ゆとりのある人とそうでない人とではかなり違いが出る。

 

始めから無理だったり、無理な状況が続けば、意欲も失われてしまう。

 

まずは自分でやってみて というのは、ゆとりのある人に言うべきであり、国のために何ができるかを考えてほしいというのも、苦境にある人に言えることではない。

 

 

山本五十六の「 やって見せ、言って聞かせ、させてみて、ほめてやらねば、人は動かじ」というのは、関わりを持った上司と部下の間柄でのことである。

 

助けを求められた際に、相談に乗らずに、自分でやってみてというのでは、冷たい上司だろう。

 

支援が上下関係ではまずいが、困っているのなら懇切丁寧な対応が必要である。

 

人の能力や性格には差があるので、親身に検討できる体制にしておくべきである。

 

本人に打開できる能力があるかどうか把握せずに、させてみるのは、無責任である。

 

 

緊急対応では、安易な利用を控えてもらうよう予め協力を求める必要もあるだろうが、実際に救済を求められれば、話を聞いたうえで、適切な対応がなされているはずだ。

 

様々な救済は、初期の段階から開かれて道筋が整えられていれば、対応の幅も広く、適切な対応ができるのだろう。

 

自助や共助が既になされ、やむをえないと行政側から認定されなければ、セーフティーネットとしての公助の門前に辿り着くことができないという順序付け、自助と共助の完遂が公助の条件となってしまうようであれは、人権保障上問題がある。

 

現状の実務にも問題があるが、更に後退させるおそれがある。

 

 

生存権は、法的性質はともかく、個人の権利として保障されているはずなので、前段階としてでも、国が他に委ねてしまうことは問題である。

 

必要なのに国が行なわず、ボランティア団体の活動が期待される状況は、善意・慈善へのただ乗りである。

 

 

民法の規定で、憲法を統制するのもおかしい。

 

また、勤労は、義務としてだけでなく、権利としても憲法に書かれている。

 

勤労の権利の保障が、具体的な場面で十分確保されない状況がありえ、そのために生活が立ち行かない状況から、生存権の保障として国が救済をする必要があるのであり、その点に関し、予め自助や共助に割り振って、責任の範囲を狭めることは、憲法違反ではなかろうか。

 

 

さらに、財産権の内容は法律によって定められることになっているし、一部の人への不平等な不利益に対する補償は別として、私有財産すべてが完全無欠に保障されるというのでは、公共の福祉による制約が全く無いことになる。

 

財産権の保障について、獲得済みの財産すべてが不可侵というわけではないだろうし、財産権が精神的自由と同じレベルで優遇されるというのでは、憲法の価値判断に合わない。

 

福祉を充実させる政策について、資本主義や私有財産制度を挙げて抑止しようとするのは、日本国憲法の理解としておかしい。