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多数決原理によることができない公共性を、行政領域から排除すれば、その日本政府は、日本国と分けて捉えなければならなくなる。

 

三権分立であれば、政府は元々 国の一部かもしれないが、公共性を取り分けられた権力は、正統性が不十分であると受けとめられる。

 

そのため、国を代表する政府は、公共性を伴なわなければならない宿命にある。

 

 

公共性が邪魔になるのは、多数決原理だけで、あるいは 強制力・支配力・制圧力だけで考える政権になってしまっているからだ。

 

公共性を理解できていない政権こそ、総合的・俯瞰的な観点に欠けているのである。

 

 

人権保障が憲法の基本原理である以上、それが含まれる公共性も、立憲体制の要であると意識化される必要がある。

 

行政対応が、政治的多数・民主主義的多数決原理に基づいていたとしても、公共性に反する場合には、それが憲法違反であることが分かる。

 

 

行政の中の、多数決原理に基づいてはならない公共的側面を、無視する政権の姿勢が許される状況は、ナチスドイツのような全体主義に対しても道を開いているのであり、その暴走を止められないということになる。

 

当時より世界の人権意識は高まっているが、各国国内の支持で公共性を誤れば、危険性を排除できない。

 

世界を見渡せば、一定の国内支持のもとでの、一党や有力者による強権支配が問題を生んでいる。

 

人権保障が不十分であるか機能していないと、公共性も 権力によって掌握されてしまうのだろう。

 

戦前の日本は、軍部の暴走から全体主義へと傾いていったらしいが、公共性が多数決原理で捉えられれば、現在・未来の日本で、国民の半数以下の支持から政権が始まっても全体主義に傾くおそれはあるし、はじめから国民の多数意見により全体主義になってしまうおそれもある。

 

 

多数決原理に支配されない公共性の意識と、その制度的・法律的担保をしっかりと整えておくことは、とても重要である。

 

上記のような誤りに基づいて、学術会議のあり方や行政改革について判断がなされれば、それ自体が危険に歩を進めるものである。

 

そして、後戻りできるかどうかという将来の問題というよりは、個々に問題のある対応が 既になされ、継続・累積していくという現在の問題である。

 

先述したように、日本国憲法は、防波堤になっているのである。

 

法律で公共性が歪められるおそれがあるが、憲法保障として、最高法規である憲法に反する法律は認められない。

 

憲法自体の改正でも、11条、97条で基本的人権は侵すことのできない永久の権利とされるので、それに反する憲法改正もできないと解されている。

 

ただ、統治行為論として、高度に政治性を有するからと、司法が憲法違反を指摘しない姿勢は、全体主義や独裁体制への道を開いてしまっている。

 

その司法の判断も、憲法違反である。

 

現行の様々な制度や法律にも問題点はあるのだろう。

 

根底的には、国民の意識に掛かっており、不断の努力 ( 憲法12条 ) が求められる。