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公共性について、正しく捉える必要がある。

 

権力者・有力者・特権階級の利益だけでなく、功利主義的に多数の利益で捉えてしまっても、「公共の福祉」が言葉泥棒の被害に遭う。

 

有力者や多数派の利益のために人権侵害が容認されてしまうことが指摘されてきた。

 

民主的な選挙で選ばれた権力であっても同じである。

 

 

人権擁護、各人の利益、集団社会の下での自由の必然的な制約 といった文脈で捉える必要がある。

 

ただ、そういう面を捉えきれず、公共の福祉を全面的に拒否・否定してしまって、適切な政策判断を妨げてしまう場合もある。

 

 

 

公共的な組織を政府の下に設けたとしても、設けた以上、政府が公共性を無視した対応をして良いわけではない。

 

勘違いで、支配関係の下に運用すると、羊頭狗肉の不正義となる。

 

行政組織内の公共性が求められる領域についても、同様である。

 

示された結果などに対して、総合的・俯瞰的な判断がありえても、人事も含め、知見の機能自体に介入して影響を与えてしまうのは、大きな間違いである。

 

既得権による聖域や、因習・惰性的慣行とは、しっかりと区別がなされなければならない。 

 

 

公共的な必要性から、国が設置していれば、税金が投入されているのは当たり前である。

 

組織上の問題を、内密に人事的解決によって図るのでは、民主的統制とは逆の非民主的な手法である。

 

問題点があれば、一般に指摘がなされたうえでの議論が必要である。

 

ただ、議論といっても、公共的な組織として自治がなされてきたのであり、立法府からの政治介入になれば、政府による介入と同じようなものであり、外枠の議論に限られる。 

 

 

公共部門の捉え方の間違いが、政府への信頼という面で、安倍政権の致命的な誤りであった。

 

アベな義で偉いを 押し通せば、アベな不正義も継続してしまうことになる。

 

 

 

日本学術会議の推薦通りに任命することは、義務とまでは言えないとし、解釈の変更ではないとの説明がなされていたようである。

 

一見、運用を変えただけとも思ってしまうが、政府の答弁で一般的に運用方針を示せば、それは一つの解釈が示されているのであり、たんに事実上の運用がなされているといったこととは異なる。

 

政府が公的に約束したこと、自らに制約を課したことを、義務でないと捉えるのでは、国の信用を失う。

 

契約であれば、契約内容、約束を守ることは、履行義務であろう。

 

国の私人的な約束は義務で、公的な約束は義務ではないというのは通らない。

 

国会での答弁で政府側が約束したことについて、義務とまでとは言えないという解釈は、国会への連帯責任を無視した憲法違反である。