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言論に対する暴力を 認めることができないことは言うまでもない。

 

あらゆることについての評価は、最高評価からマイナス評価・最低評価までありえる。

 

宗教教義上、暴力行為を指示・容認する内容があったとしても、過去に示された言説は、当時の状況に合わせた表現や内容になっていて、現在においてその全てに従うことができなくなっている場合があることが、信者にも一般にも受け入れられる必要がある。

 

現代社会の下での適切な解釈が求められる。

 

説いた人自身もそのほうが良いと思う内容があるはずだ。

 

それが分からないと、大切なことも理解できていない可能性がある。

 

考え方を示した人は、その当時の状況の制約を受ける中でその考えを示したのであり、亡くなった後に社会状況が変化した場合に無理にその考え方に従わせるようなことは、正しくありたいと誠実に思う人であったのであれば望まないと考えるのが、受けとめる側の思いやりであり、正しさであろう。

 

 

教義・教条その他の思想を他者に強制したり、そのことで他者を罰するのでは、自身が異なる考えを強制されたり害を受ける可能性を生む。

 

一方で、否定的な表現を、TPOにかかわらず全くの自由とすべきでもない。

 

完全な自由は、他者の平穏な生活に悪影響を及ぼす場合がある。

 

表現の自由は基本的に認められるべきではあるが、個人への誹謗中傷はもちろんのこと、他者の気持ちを害する内容が 何気なく人目に触れる状況は 認められるべきではない。

 

また、公人の発言に問題があれば 報道がなされる必要があるが、限定的なTPOの下では認められるべき一般人の表現を批判する場合には、引用する側が TPOに配慮することも必要である。

 

射程範囲が限られるべき内容について、全面的に周知してしまうような拡散行為は 間違いである との共通認識が必要である。

 

射程範囲を限るというのは、秘密のやりとりということではない。

 

敷居を設けることで、言説に触れることについて、受け手の判断に任せ、言説自体の排除は求めない、表現の存在自体は否定しないということである。

 

限られたTPOでの表現を一般的な議論の場で扱って排斥しようとすることが良いとは思われない。

 

言論によって評価すれば良い。

 

社会問題として議論が必要で一般的に触れられることになり、他者の気持ちが害されることとなった場合に、拡大された公開性に起因する結果について 元の言論の責任を問うことが適切であるとは思われない。

 

ネット空間についても、すべてを同列に全面公開的に捉えるべきではないと思われる。

 

誹謗中傷を擁護することはできないが、告げ口的な拡散で解決を図るのでは、被害を大きくした分の責任は別にあると考える必要もある。

 

 

 

気持ちを害するといったことが曖昧であっても、報道倫理や警告・注意表示なども存在し、適切な配慮をすれば自由が確保されやすい。

 

妥当な扱いについての 検討や見直しが、継続して行なわれる必要がある。