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同調圧力は、受け手側主体の否定的表現なのかもしれない。

 

内容的に正しい・必要なことと考える側では、同調というよりは、協調と捉えられるのだろう。

 

圧力と感じられるものが、表現の自由として認められる範囲を超えるものであれば問題であるが、そうでなければ 逆に表現の自由のほうが圧力に晒されることにもなる。

 

また、同調圧力は、多数派によるものと一般的には解されているのかもしれないが、権力との同調という面も無視できない。

 

 

法律で規定されれば、同調圧力では済まされなくなる。

 

自粛やマスク着用は、法律で定められれば同調圧力と言っていられなくなるのだろう。

 

ただ、法定したうえで、運用上あそびの部分を作る方法もあろう。

 

逆に、不文律や、地域での生活の必要上従わざるをえないということなどは、強制力としては成文法と変わらないのだろう。

 

 

同調圧力を支えているのは、受け手の意識なのかもしれない。

 

視線が気になるという場合の視線は、団体行動によるものではなく、それぞれの人の個別の反応や表現に過ぎない。

 

どう対処するかは、受け手の信念の問題であり、どういう価値を優先するのかということに掛かっている。

 

海外の人権問題で 当該市民がどういう行動・立場をとるかということを、日本に引き寄せて考える必要もある。

 

権力と公共とを分けて考える必要もある。

 

公共も、多数に従うかどうかどうかではなく、他者への思いやりで捉えられる必要がある。

 

 

長い物には巻かれよという考え方なども、多数派や強者に合わせることを良しとするので、保身や自己利益のための忖度と同様、同調圧力を支えているのかもしれない。

 

長い物の正しさ・公正さを考えるべきである。

 

他者を考慮しない自己利益の算段で長い物に巻かれるべきではない。

 

 

安倍政権の支持率が回復したりすることの下地にも同じ面があるだろう。

 

公正さに意識が行ったときには、支持率が下がったのだろう。

 

総理大臣の職は個人の夢の実現の場ではないので、病のため志半ばで去らなければならなくなったという捉え方は、間違った感情移入や忖度である。

 

間違った政策の実現を志されて、それを遂げられても困る という人々への配慮も必要とされる。

 

人数は別として、アベノミクスで潤ったという人の声や、高評価に有利な基準での数値的高評価が伝えられたりするると、必ずしも潤っていない人々でも、何となく権力・権威側に付いていたほうが居心地が良かったりする面がある。

 

功利計算上でも そのような幻想部を 取り去る必要があるし、功利主義に基づいたとしても、公正さを無視できないであろう。

 

経済優先で資金を使えば、それなりに経済面での功利主義的な支持を取り込むことができるのだろうが、手法や政治哲学的に問題があれば、肯定的評価を下すべきではない。

 

公正さや他の問題が大き過ぎれば、経済面での評価がそれを上回ってもアウトである。

 

それをOKとして安倍政権を高評価することは、道徳的に正しくない。