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功利主義が個々人の利己主義と結び付いていれば、その集積結果に於いても、利己主義の要素が無くなりはしないだろう。

 

少数派となっった場合に不利益を受け入れるとしても、利己的な勝者と利己的な敗者に分かれるだけだ。

 

敗者が利他主義になれるのなら、勝者が利他主義になって少数派に譲っても良さそうだが、功利主義ではそうはならないだろう。

 

政治的妥協もあるだろうが、多数派工作など 多数派になることでの自己利益の追求や、多数派としての利己主義の追求 がなされて、帰結するだけのことも よくありそうだ。

 

正しさの実現ということであっても、功利主義に沿って捉えられることが多いのかもしれない。

 

 

自分の財産の使途などについて、利他主義と結び付いた功利主義を取り入れるのは、個人の生き方としては自由なのかもしれないが、( 個人レベルでも、社会レベルでも ) 功利主義による少数者犠牲の判断などは、下して良いとは思われない。

 

不遇な立場の人が救われることが良いのは確かで、分け合えるのならそうしたほうが良いことは言うまでもないが、いったん利益を手にしたうえで、権利者として恩恵を施すということになれば疑問が残る。

 

たまたま必要以上に得たものを他者と分け合うというのは良いと思うが、システム的に常にそのようになる状況は、社会的に良いとは思われない。

 

公的な再分配が不十分・不完全で、個人の判断でなされる部分も有益なのだろうが、個人に委ねて公的な部分が縮小してしまうのでは良くない。

 

ノーブレスオブリージュのようなことが一世代の中でも固定化している状況にあるのなら、社会システムを問う必要がある。