245

熱中症の心配から、環境省等、マスクを外してもらうことに意が注がれているようだが、マスクを外しただけでは、例年どおりにしただけで無策と同じである。

 

マスク無しで熱中症が発生している状況で、マスクを外す呼び掛けが主なのはおかしい。

 

テレビ番組の扱いなどでも、マスクを外すことに過剰に意識が向いただけの場合もある。

 

率先して外すとか、外す勇気を持つとかの表現は、道徳や人格の領域に踏み込んで着用者の判断を見下していて、熱中症対策の呼び掛けとしてふさわしくない。

 

 

自転車の時は外すといっても、歩行者の近くを次々に通り過ぎ、行き交うような場面も稀ではなく、密の状態と同じになってしまう。 

自転車でもバイクでも、乗っているときは風を受けているのと同じで、熱さが緩和される。

 

人が近くに全くいなければ外すのが自由なのは当たり前だが、街中では距離を保てないことのほうが多いし、距離感も人によって異なり、後ろから追い越していく人にまでは注意が行かないだろう。

 

話しながら歩くこともあるし、ジョギングをする人もいる。歩行喫煙者も散見される。 

 

距離を保てる場合というのは、街中ではかなり限定的・例外的な場合であり、選択肢に入らない対策を推していることになる。

 

距離を保てていないのに外すことをも促す結果となっている。

 

マスクを外した人がすれ違う空間が保たれる状況を招いている。

 

 

人目が気になるというのは、気になる距離内に人がいるということであり、行き交う中でマスクを外すことは、心理的な理由というよりも客観的な状況として無理がある。

 

良くない行動と捉えられることを、許容するというのもおかしなことになる。

 

 

すれ違うだけでは感染するリスクは低いといっても、コロナ禍のマナーとしての違和感は残る。

 

マナー違反を責め過ぎるのが問題だとしても、リスク算定の合理性を基準として、マナー的に気になる人が間違いかのように持っていくのもおかしいだろう。

 

 

マスクは外しても、他の対策は人一倍気に掛けるという人もいるだろうが、傾向的には、会話・会食・手洗い・消毒・距離・その他全般的に緩くなり、結局しっかりとやっている人でも、緩い人々の対策下の環境に居合わせる機会が増えていく。

 

 

マスクをしている分、水分・塩分等の補給・冷却その他の対策にこれまでより気をつければ、逆に熱中症になるリスクを下げることもできるはずだ。

 

 

マスクをしていると喉の渇きに気づきにくいという理由は、間違った対応を前提としている。

 

熱中症対策での水分補給は、喉が渇いてからでは遅く、喉の渇きを感じなくても適宜、水分補給する必要があるはずである。

 

マスクを外したい暑さの中での喉の渇きの気づきを問題にするのもおかしい。

 

適宜マスクを外すのが正しいわけではなく、適宜の水分補給・冷却などが必要だ。

 

感覚の問題に合わせて言えば、マスクを外すことで対策を取った感が出てしまうとマイナスだ。

 

 

災害並みなら、一般向けとしては半ズボンでも袖なしでも推奨しなければならないだろう。

 

直射日光も良くないとすれば、マスクが防いでいる面もあるかもしれない。

 

 

マスクの着用が熱中症に直結するような状況であれば、むしろマスクの問題ではなく、他の対策が重要であったり、その状況から避難すること自体が必要となる。

 

災害なら、外出を控えるよう求める必要があり、外出してマスクを外すのでは、感染症予防も熱中症予防も、両立ではなく、共倒れ状態だろう。

 

32~33℃以上など、熱中症予防も感染症予防も共に不十分になる状況として、外出自粛を促していくべきで、マスク外しの求めは的外れだ。

 

感染予防と熱中症予防を掲げても、実際は社会経済活動を通常どおり行なおうとしているに留まる。

 

暑さ指数や熱中症警戒アラートは、気温が低めのときに重要性を増し、湿度や風通しを考慮することは大切であるが、気温自体が高レベルに至れば、それだけでも災害防止的な外出自粛の目安となる。

猛暑時に気温と似た数値を示されても、誤解・混乱してしまう。

 

 

因みに、他人から非難の目を向けられるからマスクをするというのは、他人から怒られるからと子供に注意するのと同じで、思いやりや優しさからは離れていて、幸せには結びつかない。

 

政策判断で、国民の不満が大きくなれば 変更するが、それほどでもなければ 無視するというのも、優しさや思いやりを主としない政治姿勢の表れと言える。

 

救済措置などが採られても、恣意的で客観性を欠いたりもする。