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経済面からの制限緩和の必要性・根拠として自殺に言及がなされるが、過去に救えなかった政治・救えない姿勢を前提とする論理展開には賛成しえない。

 

トロッコ問題としても、救える命の数を比較計算して判断を下すべきではない。

 

政策で様々な影響を考慮する必要があるとしても、現実の場面では与件も不確かである。

 

また、データに基づく知見は重要であるが、政治判断についてデータが示されても、扱い方や選択などに哲学的な違いが影響することに注意が必要である。

 

経済的な必要性からアプローチすることで、ハードルが低く設定される可能性があるだろう。

 

医療の逼迫について、平時に気にされていた数値はどれくらいの水準だったのだろうか。

医療関係者の負担や集中治療面はどうなのか。

 

制限を解除するとしても、再び制限が必要となったときに、一、二週間前の感染が反映されたデータに基づく対処では遅過ぎてしまう可能性も考慮しておく必要がある。

 

地域によって状況に違いがある範囲では、判断に違いがあるだろうが、広域で問題が出て来れば、また違ってくるのだろう。 

 

制限解除でも確率的な判断が必要だが、バイアスを排除した長期的な総合判断が必要となる。

 

 

生活の保障がなければ、個々では他者を救うことがができなくなるのは当然である。

 

当初のアプローチは、8割削減、2週間くらいでの効果とその確認のために更に2週間といった内容だったはずで、それに合わせるのであれば、休業補償ではなく、個人の生活保障で良かったと思われるが、長引けば事業を維持させるための補償が必要となり、休業を余儀なくされる状況では、補償がなければ社会のための閉業・倒産に至るので、再開できる事業者は自力救済の必要があり、協力はできないということになる。

 

政府の対応は8割減に失敗して要請を延長しているので、休業補償が不十分な中で、感染拡大抑制と経済のバランスをとらざるをえない状況を招いている。

 

 

そもそも、補償なしや不十分で働きをストップさせることが、トロッコ問題のスイッチ切り換えに相当すると思われる。

 

各自が両方のリスクを負っているので、思考実験と完全に一致するわけではないが、当面の生活が問題になってくれば、自他含めての感染阻止を最重視することはできなくなるだろう。

 

対象にされたほうとしては、助けられるならと思って行動に出ても、自分では助けられないことが判ったら、犠牲になるのが正しいとは言えない。

 

切り替えた者に助ける術があるのにそうしない状況でも、対象とされたほうでは同じである。

 

 

 

 

既に感染が進んでしまった状況では、絶対に感染しないということでは生きて行けない。

 

人は様々なリスクの中で生きている。

 

個人も社会全体も、知見で示される、よりリスクの低い行動を、日常で繰り返し選択していくしかない。

 

自分は対策なしで良いと思う人が増えても、他者のための行動が求められることになり、そこでも自主的な協力のみの限界の問題が出てくる。

 

 

 

一般に人の命を救うことが最優先と言われても、至上価値は財産権に置かれているようだ。

 

人は、得たものを失うことへの拒絶感が強いらしい。

 

知性を使って利己主義の正当化が全力でなされる。

 

 

ただ、憲法による財産権の保障といっても、財産権の内容は法律によって定められるのであり、人命に優先するとは考えられない。

 

公共の福祉が安易にお出ましになるのは問題だが、平等に命を守ることが可能なのであれば、それを無視することは公共性に反することになる。

 

正当な補償も、社会の富全体で人々を救う必要がある事態では特に、その時の社会的な負担可能性によると解されるべきである。

 

財産権の内容が法律で定められるのであれば、私有財産に対する正当な補償について特別扱いと解すべきではない。

 

実際上は、日本単独で行なわれれば、外国資本が出ていく、株・為替・国債の暴落などと、甚大な影響があってできないということになるのかもしれないが、将来それをも上回る、予想もできないような壊滅的な事態・世界的な事態が起こる可能性もゼロではないだろう。