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寂しさは続くが、あのままだったら帰るのが辛い毎日になっていたはずだ。

 

伴侶をより強く感じられる場所なので、帰りたいし、癒される。

 

ねこの写真をまだプリントアウトしていないが、役立つのかもしれない。

 

 

ねこの魂と共に生きているというのが自分の勘違いで、ねこが寂しがっているといけないので、墓参りはする。

 

お墓にいなくても、天国や親兄弟のところにいるだろうし、虹の橋で会えるのかもしれない。

 

思う自分が消滅して無になるのなら、思い煩うこともない。

 

三段構え以上で大丈夫、安心できる。

 

 

ねこの最期も、最後は苦しみではなく、息を引き取る際の安らぎである。

 

苦しさは、ねこの生涯のピークでもエンドでないのだ。

 

生まれて直ぐに亡くなってしまったとしても、その点は同じだ。

 

 

子どもの時にいたねこは、車や電車に轢かれてしまい、トラウマが残った。

 

悲しみに囚われると、確かにあった幸せを忘れてしまう。

 

自分の悲しさや寂しさから逃れることだけに囚われず、また、愛猫が亡くなる前の苦しみに共感するだけでもなく、ねこへの思いやりとしては、共に過ごした幸せを忘れないことである。

 

 

 

各自が幸せをを求めるというのは利己だが、各人の幸せを疎かにする社会は恐ろしい。

 

他者の幸せを願うのは利他であるが、自分の幸せだけ外すのも、犠牲を許す社会ということになる。

 

自己犠牲が尊いという考えが一般的になると、それが社会的要請になり、自己犠牲を求め合う社会になってしまい、結局は思いやりの欠けた社会になってしまう。

 

自粛なども思いやりを基に考える必要がある。

 

自分の利益だけを考えるのでは、他者への思いやりに欠けるし、一方で、自粛した人への思いやりも必要である。

 

格差を気に掛けない姿勢では、補償の範囲や基準が怪しげなものになる。

 

 最悪の状況下の人を救うのは当然だが、対象を絞り込んでいては最悪の人が増えていく。

 

在宅ワークだけで成り立っている社会ではないので、風邪をひく度に仕事を一週間二週間と休まなければならなくなるし、感染・陽性が何度も確認されれば同じだ。

 

富の再分配を意識し続ける施政方針が求められる。

 

 

話を戻そう。

 

供養は、供養する人のためでもあるのだろう。

 

しかし、亡くなった側にしても、亡くなった後でも想ってもらえるという点で、やはり供養は、亡くなった相手への思いやりと言える。

 

物の供養も同じであるし、思いやりは、対象の生を条件としない。

 

猫やぬいぐるみを撫でるのが自分の心身に良いことが分かっても、そのために撫でるのでは、散歩やトレーニングと同じになってしまう。

 

かけがえのない相手への思いやりは、相手が亡くなった後でも大切であり続ける。