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「(他者が悪くても) 責めない」ということを、自分のルールにしておけば、思いやりを持てないときに役立つ。

 

自分の考えが正しくて、他者や環境・状況が悪いと思うと、思いやりをもつのが難しくなる。

 

 優しさや思いやりの心から外れてしまうと、穏やかな心や幸せから遠ざかる。

 

自分を責めるのも同じである。 

 

自分が正しいと思っても、勘違いのこともある。

 

価値判断の違いもあるし、恣意的な好悪に過ぎない場合もある。

 

 

予めマニュアル化しておくと、そのたびに思い悩まず (心理的なショートカット) 、正しい方向に進める。

 

ただ、思いやりや利他性を忘れてしまうと、マニュアル通りに行動したという満足感だけになり、幸せからは遠く、虚しい。

 

義務の背後にある意味を見い出せないと、単なる自由の束縛になり、苦痛の度合いも高くなる。

 

幸せに関しては、利己と利他は結びついているので、対立したものではなく、もともと止揚 (アウフヘーベン) されていて、それに気づくかどうかに過ぎないのかもしれない。

 

( アウフヘーベンという概念についての理解に自信を持ってはいないが、それを否定的に捉える言説が十分な根拠を示していたようには思われなかったので、自分の理解のまま使っている。)

 

 

怒ってはいけないという教育を受けた経験が若い人ほど多いのだろうか。

 

ただ、怒りをあらわにしないからといって、陰口などを言って良いわけではない。

 

少し離れたところで、聞こえるように悪口を言う人もいる。

 

怒りを表さない人が増えても、いじめが無くならないとすれば、負の感情が潜在化しただけだろう。

 

また、婉曲的な表現でも、責める気持ちがあれば皮肉となり、指摘するだけなのとは違う。

 

責めないというのは、そのようなことまで含めてのことであり、自分の心の中でそれらを打ち消すルールである。

 

 

人間は集団社会で生きるため、制裁が必要であるらしい。

 

 正しさを知性で判断したつもりが、制裁が必要という方向に自然と導かれ、怒ったり責めたりということになると、知性ではなく本能に従属していることになるのかもしれない。

 

自己保存本能による攻撃もあるのだろう。

 

 

モラハラでは、モラルに反した人が被害者というのもおかしな点はあるが、疑問符がつく正しさであれば、それを押しつけるのは、客観的に見て問題があるということになる。

モラルも人によって捉え方に違いがある。

 

自分が正しい、相手が悪いと判断すると思いやりが効かなくなりがちなので、他者が悪くても責めないというルールを意識すれば、それらを回避できる。

 

怒ったり責めたりしてしまっても、行き過ぎを防ぐブレーキになるだろう。

 

 

 ただ、本能に抗い、怒りも含めて感情を滅すれば良いということではなかろう。

 

本能と知性の調和が求められる。

 

責めないというのは、ありのまま受け入れるということにも通じるが、受け入れるのが感情的に難しいときに、 役立つと思われる。

 

祖父母の孫に対する愛情のような気持ちを持つことはできなくても、客観的には少し近い態度が示されることになる。

 

場面によって、父母のようであったり、兄弟のようであったり、友人のようであったりする。

 

赤の他人という捉え方は、思いやりから外れて責める姿勢につながる。

 

( 因みに、ドラマで「よく言うた。それでこそ赤の他人じゃ。」というようなセリフがあった。

表現自体は思いやりに欠けるのであるが、独自の人生哲学や、優しさの照れ隠しもあるのだろう。

受け入れて助けることを前提として、手伝いをしてもらうだけのことでもあるし、居辛さや遠慮を減じることを考えての思いやりの発露とも言える。)

 

 

朝起きるときに、眠かったり体が痛かったりしても、状況を責めないと考えれば、起きやすくなると思う。

 

子育てや認知症介護などにも役立ってくれれば、と思う。

 

自分と違う意見に対してや、犬・猫・野生動物に対しても、自分が思う正しさでそのまま責めるのは、知性にも思いやりにも欠ける。

 

 

後悔は、過去の出来事や自分を、あるべき姿・正しさに基づいて、責めていることになる。

過去には遡れないので、責めずに反省材料として認識 (自分に指摘) しておけば良いだけだろう。

あるべき姿や正しさの判断が誤っている (無理がある) 場合もあろう。

 

 

病は悪だという判断は正しいかもしれないが、自分や病をせめても仕方がない。

責めることが必要なのではなく、対処が必要なだけであろう。

 

 

正しさの判断と責めるかどうかは、分けて考える (意識的に切り離す) 必要があるし、そのほうが有益でもある。

 

(教えるときに、必ず叱って責めなければならないわけでもない。)

 

 

ただ、 責めないといっても、正しさについて考えることは大切である。

 

また、分けて考えるとしても、社会的なことでも私的なことでも、見過ごせないことはある。

 

 

  個別に思いやりを持てないときのために、ルールや義務としてシステム化しておくことは、思いやりに適うし、思いやりのあらわれのひとつと言える。

 

義務といっても、個人のルールと公的・公共的義務とでは、あり方が異なるのは言うまでもない。

 

 

どうしても必要でなければ責めず、必要であるとしても、できるだけ指摘するだけにとどめるというルールは、他者のためにもなるので普遍的格率と言えると思われる。

 

責めないということは、墨家の非戦・攻めないということにも通じるだろう。

 

 

心の中で責めないということは、悪意や悪感情を伴なって他者を見ないということである。

 

恨まないし、他者の不幸を喜ぶこともない。

 

妬み・嫉みも、羨ましさの域にとどまる。

 

不機嫌さを表すのは、他者を責めているのと同じである。

 

他者が不機嫌であるからといって、自分も不機嫌になって他者を責める気持ちを持たない。

 

 

優しさや思いやりのある人が不遇でも幸せでいられるからといって、他の者がつけ込んだり、不遇を放置するのは、他者の良心を踏みにじったり、ただ乗りしたりすることであり、それが不正義であることは言うまでもない。

 

 

寛容性・共存・共生といったことの実践上で必要である。

 

自分が必ずしも正しいとは限らないということを自覚するのなら、その実践上、自分が正しいと思っているときでも、他者を責めて良いことにはならない。

 

謝って済むことなら良いが、激しく責めるのでは上記の理解と実践に乖離があることになる。

 

悪を責めるのが普通であり、悪いことを何でも見過ごして良いわけではないが、支配関係が否定される場合には、他者が悪くても責めないという部分がどうしても必要になる。

(力関係によって一方だけが口をつぐむというのは不当である。)

 

中東和平でも日韓関係でも意識される必要がある。

 

保守、リベラルを問わない。

 

宗教も含めて、いつの日にか世界の共通認識となるだろう。

 

 

 思いやりの心に基づく、責めないという義務を、自分の意志で取り込めば、ストレスを抱え込まず、様々な心の重荷から解放され、幸福につながると思う。