会社は誰のためのものかという点について、株主のためのものであると考え、経営に関わっていない株主が自身の経済的利益のため経営全般に口をはさむことを許すとすれば、所有と経営の分離という会社制度の趣旨に反すると考えられる。
沿革的には、金が余っているから使い道はないかという面よりは、やりたいことがあって資金調達したいというほうが先立って、活動と資金を結びつけた制度ではなかろうか。
資金を持つ者のその有効利用が第一で始まったわけではないだろう。
資金の供給側 (サプライサイド) に立って、需要先を創出するということもあるのかもしれないが、会社制度の源泉としてはそういうことではなかったのではないかと思う。
投資者を主にすると、金が金を生むマネーゲームが主になり、公共性の視点が入らなければ、関係する人々や社会全体が、マネーゲームに支配される。
AIによる支配のさきがけのようなものであろう。
一方で、会社が運営されて様々な関係ができてくれば、経営側・経営目的だけのものであるとは社会的に認められなくなる。
クラウドファンディングでも、枠組みが整備されることで出資者の主体的な判断が一般的に意識され、環境問題への対処など公共的な視点が重要な役割を果たしていると思われる。
株式市場では利益がもたらされなければ投資がなされなくなり、会社制度も成り立たなくなる。
誰のためのものかではなく、誰のものかという問いだと所有権が意識され、株主のものと解されそうであるが、所有権と言えども絶対ではないし、有限責任でもあるし、資金を回収するために会社を清算できるわけでもない。
会社制度の趣旨に反する権限が株主に認められるわけではないが、会社法で認められた株主の権利があり、資金調達の必要上や経営上、 株主にどの程度配慮するかは、経営判断次第となる。
法人組織が結社の自由として保障されるとしても、公共の福祉と無縁ではない。
公共性の観点からであれば、株主が経営方針に干渉することは、所有権の原則側に戻して肯定すべきである。
私企業であっも自由放任ではないので、公共性の観点からの制約を受けるのは当然である。
従業員・顧客・取引先などステイクホルダーとの関係は公共性に関わる。
三方よし ( 売り手よし・買い手よし・世間よし ) は、正しい。
会社法の解釈や改正で株主の権利を考える場合には、公共性を欠いた投資者の権利拡張につながらないように検討しなければならない。
投資ファンドも会社制度等の下で存在する。
会社を継続するかどうかという判断をするのが経営者である点では、会社は経営者のものということになるが、公開企業・大企業となると、やめたいからやめるというわけにはいかない点で、経営者のものではなく、社会の公器に近づく。
個人経営でも、公共性が関わってくるが、やめられないということも酷である。
継続する義務が生じるわけではないが、従業員がいれば、単純に会社が経営者のためのものと解すこともできない。
様々な制度は、できた後で当初とは少し違う利用の仕方がなされることもある。
会社が誰のためのものかということは、権利や義務に直接関わるわけではないが、会社制度自体が社会的要請に応えるものである以上、誰のためになるかという点で時代に則した社会的要請に応える必要があり、法律の解釈・改正や制度の整備について間接的にではあっても重要な視点と言える。
環境問題を深刻に捉えれば、 戦時下の国家総動員法のように、宇宙船地球号として、心情的には人類総動員法が求められる時代に差し掛かっているのかもしれない。
地球環境が立ち行かないことを理解しながら利益追求の割合を高く保つのでは、継続性の面で合理性に欠ける。
現実に総動員法なるものが制定されるようになると、社会が危うい雰囲気に包まれしまうことが予想されるので、そういう面でも早めの対応が大切である。
宇宙人の襲来でもないので敵はいない。
心の中の利己主義・自由至上主義・経済至上主義・国益至上主義などの抑制が必要である。
敵は本能にあり、といったところか。( 本能の意味は違うらしい。)
利己主義に従属した知性で公正さを過たぬよう、優しさ (思いやり) を主体とする知性に依る必要がある。
企業の買収については、株式市場で経営権が売り出されているかのような捉え方で運用がなされている部分があるのであれば改めるべきである。
株式公開買い付けなどでも、敵対的買収が良いとは思われない。
経営権の争奪戦が取引市場にふさわしいとも思われない。
証券取引市場は、経営権・会社の実体そのものの売買ではなく、一般的な投資目的のための制度として整備されるべきである。
会社法上の株主の権利も、そのように整えられる必要がある。