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「  (公共的に必要でなければ)  決して他者を責めない 。」というルールを自分で設定して守ることは、自分を楽にするかもしれない。

 

相手が悪いのに責める気持ちを抑えるとフラストレーションが溜まってしまいそうだが、困っていることを指摘するだけなら責めるのとは違うし、公共性・公共の福祉に反するわけでもない。

 

相手は指摘されただけで責められたと思うことが多いかもしれないが、言論の自由として許される範囲での指摘を否定するのは妥当ではないし、相手は相手で自身の主張をすれば良い。

 

 

教える人に怒りや苛立ちが伴なうと、責めたり、叱ったりしたことになる。

 

~すると (の結果) ~になってしまうといった否定的な表現をしてしまうと、相手は責められていると感じてしまうことも多い。

 

~したほうが良いという表現でも、口調や雰囲気によっては同じになる。

 

 

主観だけで他者を責めるのでは公正ではないが、自他限らず不当な扱いを受けたにもかかわらずそれを指摘もしないのでは、公共性に反する場合もある。

 

責めないということに、公共性の条件を付しているのはそのためである。

 

公共の福祉が持ち出されるとアレルギー反応が出てしまいそうだが、個を犠牲にする文脈ではなく、ベクトルや次元が異なると言える。

 

公共心として滅私奉公が強要されるとすれば人権侵害になる。

 

公務員が人事権を官邸に握られていようとも、国民のために仕事をするといった意味に限定的に解釈するなら意味がある。

 

 

悪いと考えられることを指摘もしないのでは公共性に反するので指摘はするが、他者をそれ以上に責めない。

 

 悪い状況を責めないということは、恨まないということであり、状況を受け入れるということでもある。

 

禅や道教などと接してくるかもしれない。

 

ただ、私の考えの中心は思いやりにあるので、無為自然とは少し違うと思う。

 

 

怒りや悲しみの感情を無理に否定せずとも、責めないというルールの下では負の感情が合わないことが意識されてくるので、怒りや悲しみを鎮めることができそうだ。

 

大脳前頭前野で抑制するということになるのかもしれない。

 

同じ抑制でも、怒りや悲しみを抑えながら、穏やかに指摘するというのは難しい。 

 

感情を直接抑えようとするのは難しいが、自分で定めたルールにこだわりや愛着をもって守ろうとすることで抑制しやすくなるのではないか。

 

 

カントの普遍的格率にも適うと思う。

 

道徳としては主観によるべきではなく、公正さが求められる。

 

 

社会的には責任追及が必要であるが、多くの人の処罰感情が変われば刑罰のあり方も変わる可能性はある。

 

指摘はしてもそれ以上に責めることはしないということは、赦し・平和主義・言論の自由のあり方とも関わっているし、自身の心の平穏や幸せにつながると思う。

 

責めないというのは、必ずしも心からの赦しとは違うっだろうが、完璧を求めなくても良いのではなかろうか。

 

相手の反応が変わり、それを受けて真の赦しにつながることもあるだろう。

 

責めないという、自分が定めたルールに縛られることで逆に、怒りや苛立ちから心が解き放たれ、自由になれるように思われる。

 

どこまでできるかどうか分からないが、少しは役立ちそうな気がする。

 

幸せになるという目的のためであれば定言命法とはならないとカントは考えるのだろうが、人の幸せから乖離した正しさは無いと私は考える。

 

自己の幸福だけを目的とすればそこに公共性や公正さの意識はなく道徳とはなり得ないが、自他共に幸福につながることは正しいと考えられる。