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いじめをなくすために、いじめにあたるか否かの境界線を見極めるのは難しい。

当事者の主観や社会的な視点も様々である。

 

いじめをなくすというよりは、他者への配慮を欠いた自由や権利を最大限に確保しようとするかのようでもある。

 

表現の自由とヘイトスピーチの関係などともオーバーラップしている。

ヘイトスピーチは、客観的に見て少数者へのいじめになっている。

芸術祭での少女像や国家権力側の権威者の写真を燃やす表現などは、弱者側の抗議表現にとどまり、いじめにはなっていない。

 

いじめになっていることを表現の自由で擁護することはできない。

 

思いやりに基づけば、他者を弱者側に立たせることはやめるべきである。

他者を弱者側に立たせる言動がいじめであると言える。

 

 いじめの認定が問題となるのは,処分などが必要な場合であるが、ひどい事例であれば、認定が困難ということにはならないはずだ。

 

正当な権利行使でなく、他者を弱者側に立たせてしまった言動について、いじめの認定に躊躇する必要はない。

 

元来、弱い者いじめという言葉もある。

 

 いじりとして笑いの範囲内にとどまるものかどうかの判断基準も同じである。

 

 

思いやりを持てない人に思いやりを持つよう説いても、簡単にいじめがなくなるわけではないが、思いやりに基づいた知性に照らし合わせて判断がなされ、具体的な個別の行為が禁止されたり、処分がなされたりすることになる。

 

 一回のことで心が深く傷つくこともあるが、心からの謝罪があればそれ以上責め続けることが妥当なわけでもない。

 

また、不適切な言動であっても、正常に判断できる状況下での真意に基づく相手の合意があれば、個人的な範囲では問題ないだろう。

 

格闘技の試合では、合意に基づくことで暴力が許されているのだろう。

 

お笑いやドラマなどの演出でも同じように考えられるが、表現内容は出演者の合意だけでなく、観覧者・視聴者などへの配慮が必要でもある。

社会的な観点で心理的な面での弱者側 (コンプレックス) を揶揄することもいじめであろう。