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原発事故に関する旧経営陣の刑事責任について、刑罰を科すかどうかという点で民事責任とは異なるという説明もなされますが、一般の業務上の過失責任と比べて、経営者側の責任について、一般的に判例上、緩過ぎる認定が行われてきたことが問題であると思われます。

そういった判例に沿うのは、経営者側に立つ人々の間での平等に過ぎず、人が責任を負うこと一般については不平等があると思われます。

不平等は是正して、適切な刑事責任が認定される必要があります。

 

絶対の安全性が求められていたわけではないという見方にも疑問があります。

原発は安全だとして、社会通念や法規制にも影響を与えてきた責任を考える必要があります。

 

長期評価に関して、全く提示されていなかったのなら予見できなかったと言えるのかもしれませんが、提示された知見を採用しなかったのでは、(認定するのはもちろん裁判所ですが) 過失が認定されても不思議ではないように思えます。

 過失の認定では、予見可能性や結果回避可能性などに分けて検討されるそうですが、客観的な事実認定のように扱っても、責任を負わせるべきか否かという評価が、根本的な部分で判断を左右する場合もあるはずで、問題はその判断が正義に適うかどうかです。

民事と刑事で過失の認定に差がでるのは、評価に掛かっているからでしょう。

 

実際に起きたことに近い知見が提示されていたにもかかわらず、具体性に欠けていたなどとして信頼性がなかったと認定するのは、(経営陣がそうだとは言いませんが) 一般的に言えば、無謀な人・無責任な人・安全より自分達の利益や考え方を優先する人などを過失責任から免れさせる論理と言えるでしょう。

知見の選択について責任があるはずです。

部下の意見内容によって、上司が無答責になるというのはおかしな話です。

 

知見の信頼性について、事故発生前を基準とした認定であっても、厳しい想定を疑問視する見解が、原発を維持・推進する視点に近い側からのものであったのだとすれば緩いほうの見解に信頼性があったと認定するのは間違いでしょう。

 

厳しい想定の信頼性を低く評価した側の意見の信頼性についての精査が、不十分であると思われます。

 

 

強制起訴を問題視する見解がありますが、司法が市民感覚を取り入れる必要があるのであれば、起訴便宜主義も補正される余地があるでしょう。

 

また、控訴や強制起訴が人権侵害になるという見方もありますが、民事で過失が認定されているなどの事情があれば、判決を求める理由が十分にあり、検察や下級審の判断だけで終わらせるほうが問題があると考えられます。