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*思いやり と リベラリズム*

 

とりとめもなくという表題の言い訳にもなりますが、自分の能力からすると、十分な知識を踏まえて語れていない可能性もありますので、(内容を鵜呑みにされる方はいないとは思いますが)事実関係も含めて、ご自身で判断していただきたいと思いながら続けています。

 

 

さて、思いやりに基づくということが、哲学上どのような位置付けなのかは分かりません。

 

人によっては、リベラリズムではなく、徳理論・卓越主義と捉えられるのかもしれませんが、私はリベラリズムに必要だと考えます。

 

ケアの倫理や共生の作法にも接しているように思われます。

 

ロールズの公正としての正義は、思いやりが効いてはいますが、合理的に受け入れられる範囲に条件を絞っているので、各自の善の構想に委ねらる部分が大きく、機能上、現実の場面で思いやりが軽視されてしまうようにも思われます。

理論的な部分でも、思いやりが後退している分、平等性が差し控えられ過ぎていると考えられます。

 

思いやりは義務ではないですが、思いやりを持てない場合には、必要な範囲で義務として求められると考えられます。

優しさがあれば、思いやりにつながりますが、優しさを持てない場合には、共生に必要な範囲の矜持は義務となります。

人間が社会の中で生きる以上、自分の自由や権利を守ってほしければ、他者のそれを守る必要があり、義務が生じます。

優しさや思いやりを持って客観的に考えることができれば、他者の自由も自分の自由も認め合うことができます。

そこが、リベラリズムとして思いやりが必要な所以です。

思いやりのある社会・思いやりに基づく正義の原理を選択せざるを得ないと考えられます。

 自分が奴隷になるリスクを負ってでも奴隷制度や独裁社会を選択する可能性というのは、選択者の人間像を利己主義だけに傾けたうえでのことであり、利益だけでの判断は、人間の利他性を考慮に入れない想定であり、誤りであると考えます。

 

カントによると、思いやりには定言的な正しさがあるわけではないということらしいですが、思いやりの概念や翻訳が一致しているのかも含めて疑問があります。

 

共感や同情などとの関係で、英語でもどの単語が良いのか判断が難しいです。

日本人が一般に考える思いやりには、感情だけでなく、知性も含まれていると思われます。

 

思いやりは黄金律でもあるわけで、リベラリズムで思いやりを中心に据えれば、負荷なき自我という問題も乗り越えられると私は考えます。