とりとめもなく・9

・平等主義と水準低下批判について・

 

水準低下の事態のほうがより良い場合がありえる、と私は考えます。

それは、正当な再分配が可能であるにもかかわらず、なされない場合です。

 

一般に人の不幸を喜ぶべきではありませんが、皆が困窮している中、一部の人だけ裕福で、再分配がなされない状況下、裕福な人が財産を失って皆と同じ水準になった場合、再分配がなされる予定があったのなら他の人にとっても財産を失ってしまうことになり、事態は悪いですが、再分配がなされないなら、社会全体としての水準が低下しても皆が同じほうが良いと受けとめられても不思議ではありません。功利主義に傾く必要もないと思います。

正当性が問題になりますが、平等だけを至高価値と捉えてしまうと、嫉妬や暴力革命・実力行使を正当化してしまうおそれもあります。ただ、それは平等だけに限られる問題ではないので、敢えて指摘する必要はないのかもしれません。

 

私の考えの中心は思いやりです。

個性・多様性・本人の努力などについて、お互いの思いやりが必要です。

ただ、努力した人が報われるべきだといっても、他者への思いやりがなく、努力した分は、権利として全部自分の物だというのでは、自己責任論と同根で社会が殺伐としてしまい、結局自分たちの存立・生存基盤も危うくなるはずです。

努力の成果なのか社会のおかげなのかは必ずしも明らかではありません。努力したことが確かでも、恵まれた環境や他者の存在があってのことに思い至るには謙虚さや思いやりが必要となります。

不運なのか本人のせいなのかも必ずしも明らかではありません。

仮に本人のせいだとしても、自己責任だからといって見捨てるのでは、成功に関しても失敗に関しても他者を見捨てる社会になり、そのような社会が正義が実現された社会であるというのは、受け入れがたいことです。

人間社会は言うまでもなく集団によって成り立っており、しかも人権保障によって個々の人を大切にするのであれば、相互の思いやりが求められるのは必然でしょう。

思いやりに欠けた社会は、勝者でさえも生きづらいし、そのような社会は持続不可能であり、破綻すると思います。

 

誰も損せずに誰かの得になるなら良いというのも、得になった分が他者に還元されないのなら、社会的効用とは言い難いと思います。

困っている人を助ける特別扱いは必要ですが、上位にいる有利な立場の人をより有利にする政策は、他の人の水準が変わらないとしても不平等であり、その事態がより良いとは言えません。それが不正とされるとすれば、不平等だからでしょう。

お金持ちだけが不老不死になるのが、より良い事態とも思われません。皆が平等に自然に死すべき運命のままのほうがより良いと思う人も(が?)多いのではないかと考えられます。

 

平等主義に関して、水準低下批判や人格影響説が影響力を持ち、十分主義なども提起されたことは、運の平等論などとともに内容的に角度を変えて反射的に、新自由主義や功利主義やリバタリアニズムに一部同調してしまい、社会的格差の拡大を後押しすることにつながってしまっているのではないかとも考えられます。

誰かの直接的な損害とならない限り、上位にいる有利な立場の人々をより有利にするような政策が肯定され続けてしまうからです。

再分配がなされる予定が組まれず、不確かなトリクルダウンを見込んだだけの政策を容認するのでは、良い社会とは言えません。

たとえ他の人の水準が変わらないとしても、上位の人々だけが富を得ていくことがより良い事態と捉えるべきではありません。パレート効率性を意識するかどうかは別として富裕層だけに意味のある政策が繰り返されてしまいます。

特定の人の夢をかなえさせてあげたいという場合があることを否定はしませんが、深刻な状況下の人がいる場合はもちろん、その他の場合でも優先順位が問題となります。

目を向ける先を誤っていれば、良い政策を練ることはできません。

経済的格差が大きくなると政治的格差にもつながってしまうでしょうし、社会構成がいびつになることは社会全体にも悪影響でしょう。

 

 

思想上の価値は平等だけではなく、平等性単独で事態の良さの判断はできません。しかし、平等が自由とともに基本的人権の中核であるのは、平等自体が人間にとって一つの価値を持っているからであると考えられます。

平等でなければ、自由は一部の独裁者だけのものになってしまいます。

条件を付して平等の価値を捉える考え方は、場合によっては条件の価値のほうが主体になってしまい、平等自体の価値への評価からそれてしまうように思われます。

自由が無制約ではありえないとしても、自由の価値自体が条件付きで捉えられているわけではないと思いますので、平等も条件付きの価値と捉えるべきではないと考えられます。

本質や価値と用途・用法は別と考えられます。

 

また、平等は、個々を比較しての差というよりは、全体の中で占める割合の問題であると思われます。

 

病気の治療に関して、年齢で優先順位を決める考え方もあるようですが、病気自体が不運であり、病気になっていない人との間での平等性も考慮されて然るべきであり、治療も抽選のほうが平等と思われます。病気自体が運・不運によるため、限られた治療機会であれば、それを受けられるかどうかが運・不運に委ねられるのも致し方ないと思われます。殊に人の生死に関わる場合には、帰責性が明らかでもない限り、当事者の属性で人が判断すべきではないと思われます。トロッコ問題や災害救助の優先順位の問題と同じように考えられます。