とりとめもなく・3

災害救助の優先順位をトロッコ(トロリー)問題と関連づけて考えてみると、

 

災害の現実をスイッチで切り替えることはできず、その路線の中での判断ということになります。

 

ただ、その中でさらに入れ子のように判断を迫られます。

 

 まず、全員を救えることが確実であれば、優先判断が必要ないとも考えられますが、時間が掛かる場合には問題となりそうです。

 

単純に多数を優先するという判断はすべきはないと考えます。

 

状況によって、多数を先に救ってその協力を得て、少数の救出に役立つなら、そうしたほうが良いでしょうし、少数のほうに技術があれば逆もありえるでしょう。

 

また、社会的弱者がいるほうを優先すべき場合もあるでしょう。

 

たまたま居合わせた人数の多さだけで判断するのは、様々な社会的判断の基本姿勢に悪影響を及ぼすと思われます。

多数派に価値があるという短絡的な多数派優遇の心理を助長してしまうでしょう。

そのような心理に基づいていることが多いのが現実かもしれません。

 

 

実際の場面では、状況を把握できていないことのほうが多く、全員を救出できないという前提にならざるをえないでしょう。

 

救助としては、状況判断の前にまず、自身の能力や装備のレベルについて、しっかりと把握しておく必要があると思います。

 

そして、災害時での能力は、時間の制約との関係で捉える必要があります。

時間との闘いという制約は大きいと考えられます。

 

緊急事態では、時間が掛かってしまうということは、自身の能力が不十分であると捉えるべきです。

自身の能力が不十分であれば、残念ながらその相手を救助できないという判断になります。

 

災害時には、救助隊が目の前に来ていても助けてもらえないことがあることを、予め皆が受け入れておく必要があるでしょう。

誰がその立場になっても同じです。

 

時間的に一人だけを優遇することはできません。

一人を救うために、他の人を犠牲にできません。

 

この場合は多数のために一人を犠牲にするのではなく、

多数の人を一人ひとり平等に捉えてのことです。

 

時間を資源として捉えて、効率的な資源配分を考える視点は重要でしょうが、

時間そのものが果実で、その平等な分配ということも意識される必要があるでしょう。

 

単純に同じ時間を割り振るのが良いわけではありませんが、

全体で支え切れないことは、他の人を犠牲にしているということになります。

 

災害救助では、多くの人を救うということが掲げられています。

ただ、多くの人が救われることは大切ですが、

本質的な大切さは、一人ひとりを救うことにあります。

 

多数のために一人を犠牲にしたり、一人を救うために他者を犠牲にするのは間違いであると考えます。

 

先に人数が意識されると、成果主義によって数字づくりになってしまうおそれもあります。

 

 

トロッコ問題や功利主義・平等主義などの議論で、

多数を救うことが道徳的直観に基づくと説明されたりしますが、

直観といっても、数量的な損得勘定が瞬時にできてしまうため、

損得計算によって、むしろ道徳的直観が妨げられているのではないかと私は考えます。

 

トロッコ問題は、数量に着目して設定がなされているため、

誘導しているわけではなくても、損得勘定に誘導されるようになっていると思われます。

損得についての瞬時の計算結果が、そのまま道徳的に正しいと解するのは問題だと思います。

 

 

多数のほうを救うための理由付けとして、

目的は多数を救うことにあって、犠牲のほうは意図していないという説明もありますが、

救済と犠牲は、表裏一体として認識されている点で無理でしょう。

認識していないとすれば、過失として問題となり、設定を逸脱していると考えられます。

 

身内を優先するということについては、

公的なことで身内を優先するのは道徳的とは言えないので、

救助でも身内を優先することが道徳的とは言えないでしょう。

 

 

積極的義務と消極的義務は、道徳上の作為義務と不作為義務で、

黄金律の「人から自分がしてほしいと思うことを人にせよ。」と「己の欲せざるところ人に施すことなかれ。」に、それぞれ対応していると考えられます。

黄金律は、思いやりの心を示しています。

 

してほしいこととは、助けてほしいということだけで、

少数を犠牲にして多数を救うとか、多数を犠牲にして少数を救うということではないと思われます。

そして、欲せざるところとは、何も悪くないのに犠牲にされたくないということで、設定例は何か分け与えられる物を持っている場合の負担とは違うでしょう。命は一つしかありません。

 

合わせて考えると、思いやりの心からは、

多数の命を救うためであっても、何も悪くない人の命を犠牲にすべきではない、ということになると思われます。

ただ、犠牲を避けても僅かな時間のことで、その後の犠牲が確実であるような場合には、僅かな時間の延命のために他者を犠牲にしたくないと考えるのが犠牲者のほうの思いやりとも考えざるをえないため、犠牲がやむをえない場合がないわけではないと考えられます。

 

 

 

現場での判断は難しいこともあるでしょうから、一人に多くの時間が掛かってしまってもそれを責めるべきではありません。

疲れてくると判断力も鈍るでしょう。

予め方針が定まっていなければ、眼前の人の救出に全力を尽くすことは道徳的に間違いとは言えないでしょう。

全体を完全に把握できない状況では、最期まで寄り添うことが道徳的に正しい場合もあるでしょう。

 

少量でもプラスとして存在しているものであれば、分配が簡単な場合が多いかもしれませんが、

損失の分担や犠牲の受け入れは、より困難を伴うでしょう。

 

人体の部位や組織を分け与え合うことについては、

負担の程度が大きいことは強制すべきではありません。

 

時間的要素を含めたうえで、平等性と医療上・救助上の能力を基に、優先順位を判断する必要があると考えられます。

時間の配分と分配。

時間の効率的な配分と時間の平等な分配を勘案する必要があると思います。

形式的な平等ではないので、公正さという面で、さらに判断が必要となります。

 

事件などで、けがの程度が同じなら、加害者より被害者が優先されるべきですが、

災害救助では、老人か乳児かといった属性で判断すべきではなく、

救助者の技術的・能力的な面から優先順位を判断すべきだと考えます。

 

多人数で、薬の量が限られていて、子供のほうが少ない量で効くのであれば、子供が優先されるべきであると考えられますが、それは一般的な属性というよりは具体的な判断によると思われます

 

乳児や子供だけ救っても生きていけない状況なら、別の判断になるでしょう。

 

単純に同じ量で分ければ良いということではありませんが、

薬が大量に必要な人がいても、他に必要としている人がいて、薬が限られていれば、他者を犠牲にして優遇措置で救うことはできません。

全体的な状況が把握されていればそのような判断になりますが、そうでなければ、一人ひとりを救っていく必要があります。

 

予め多数を救うことが予定されている装備や設備であれば、

それに合った人数のほうが優先されるべきで、

違う判断だと、特定の一人や少数者を優遇することになり不平等です。

適合しない人数が先に発見されても、適合する人数が他にいる蓋然性が高ければ、必ずしも優先できないのはやむをえないでしょう。

これらの場合も数の多さに着目してのことではなく、平等性に着目しての判断です。

一人や少数者を優遇しても、その他の人が犠牲になります。

 

ただ、上記を覆すようですが、身を置くのが少数の側でも多数の側でも、くじで決めれば、皆同じ確率ということで、公平・平等であると考えられます。

誰かを選んで犠牲にする判断を人はすべきではないと考えますので、こちらのほうが原則と思われます。

 

 

 少し話がそれますが、アファーマティブアクションは、元の不平等があるため、是正措置として少数者を優遇する必要性が認められますが、根本的なところでの是正のほうが正しいと思われます。

 

 

 

 

津波てんでんこ・命てんでんこは、

津波という時間的な制約下では重要な考え方ですが、

自分だけ助かることを肯定する捉え方になってしまうと間違いです。

 

別々の場所にいる人たちが、待ち合わせて一緒に避難するのではなく、

避難先で待ち合わせるのが良いことを示していると考えるべきでしょう。

 

小中学生など保護される立場の人が自力で避難してくれれば、他の人々も避難しやすいと考えられます。

 

一方で、保護や救助の責任を担っている人だけでなく、

近くにいる人々の助け合いが必要なことは、通常と変わりません。

( 助けることができないときは、どうしようもないことは言うまでもありません。)

 

時間的に無理なのに、助けに行かなければならない状況は、

平時の備えとして解消しておかなければなりません。 

 

 

 

 

ジョン・スチュアート・ミルの「不満足なソクラテス」ということについて

向上心という点では首肯できますが、

「知足」という面では疑問が残ります。

 

ソクラテスなら、足るを知っていたとも思われます。

 

また、効用の内容として、精神性は重要であるとしても、

頭脳のレベルの高さから見下す考え方は、幸福につながらないように思われます。

 

精神的な面でも、ありがたいと感謝できることが大切です。 

 

ただ、利他心を説いている点は重要です。

 

 

 

 

危険運転と自動運転について

高速道路上で、あおり運転に続いて、追い越し車線で停車させ、追突事故に至った事故では、

停車前の減速段階で、追突の危険を生じさせたと考えられます。

法文では、制御することが困難な高速度とは別に、

重大な交通の危険を生じさせる速度が挙げられているので、

高速道路上での危険な速度として、停車直前の減速走行はそれに該当すると考えられます。

その後、完全に停車させ、降車した後でも、危険な状態は継続しており、

危険な運転と死亡との間には、相当な因果関係があると解されます。

 

また、法令上、走行させる行為とは別に、

運転する行為という文言も使用されているので、

この場合の運転とは、飛行機なら操縦にあたる、運転操作と解されるべきです。

運転には、走行状態の継続だけでなく、

アクセル・ブレーキ・ハンドル操作があり、

停車も運転操作に当たると考えられます。

 

 

スマホを見たり操作したりする、ながら運転は、危険で迷惑ですが、

意識的な運転操作の問題ではないので、現在の危険運転致死傷罪にあてはまるものではないと思われます。 

 

 

自動運転走行時にスマホを見たり操作したりすることは、

手動に切り替わるときに、予め周囲の状況を把握していないと対処できないので、

手動が予定される技術段階では認めるべきではないと思われます。

空の上の自動操縦とは違うのではないでしょうか。

また、注視は駄目で、少し見るのは良いという禁止の仕方は疑問です。

見れば、見入ってしまうこともあると思われます。

 

 

自動運転の事故回避について、

乗員を優先しないと車を買ってもらえないとして、

AIの設定上、乗員の保護を優先するという考え方があるそうですが、

社会全体としては問題があります。

 

公共交通機関で考えても、

外を歩いている人より、バスに乗っている人の保護を優先するのが良いとは思われません。

対乗用車との事故で、バスの乗員を優先するというのは、

無辜の少数者を犠牲にする選択であれば不当と考えられますし、

バスに乗客が乗っていない場合にも疑問が残ります。

 

公共交通機関でないのなら尚更、

街を歩いている人より、乗用車の乗員保護を優先するのはおかしいと思われます。

その様な設定の自動車の走行を、社会としては認めるべきではないと考えます。

乗用車どうし、その他についても、それぞれの利己的な設定を許すのは、社会として間違いであると考えます。

 

社会的な規制によって、抜け駆けを許さなければ、その枠の中で利用されるようになるはずです。